亡霊





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 新しい生活は、素晴らしいものだった。事件は風化され、あの事件を覚えている人は皆無に等しい。たまに職場や住居を変えざるを得ない場合もあったが、それもほぼ無くて済む環境で私は日々を過ごしていた。
 働くとは良いことだ。刑務所内でも作業労働の時間は有ったが外の世界で一般の人たちと働くのはまた別の意味がある気がする。
 五年。五年だ。その間、世の中は考えていたよりも変わりなく変わりなく私を迎えてくれた。
 たまに所内での先生の言葉を思い出す。「自分を大切に、他人を大切に」、「自分を失わない、見失わない」、「妄想幻想の奴隷にならない」。何度も復唱する。確認を怠らない。それがいま、私の生きていく上での必須課題だ。二度と間違いを犯さない、その為に。
 仲良くなった職場の先輩と呑みに行く機会があった。そのひとは言った。
「人間、働かない奴は駄目だよ」
 うん、うんと私は頷く。話は続く。
「お前はここに来る前に何をやってたんだ?」
 私は以前の職業のことを言った。
「その前は? その前は?」
 私は次第に答えに窮していく。困ったので、「ボランティアのような事をしていました」。
「ふうん」
「はい」
「親のスネカジリか?」
 これにも困ったので「まあ、ええ」と答える。
「そりゃ、駄目だな。でも、まあ無償奉仕っていうのか? そこは褒めても良いな」
「ありがとうございます」
「でもな、お前」
「?」
「さっきからの話を聞いてると仕事を転々としてるようだな。その前はスネカジリのボランティア? お前みたいな奴は少し性根を叩き直す必要があるな」
「はあ」
「ちょっと表に出ろ」
「はい」
 動かないでいると、
「いいから、出ろ!」
 私と先輩は飲み屋の外、繁華街の路上に席を移した。
「お前な、」
 顔を近付けて来る。
「世の中、舐めてるだろ?」
「いいえ」
「いや、そうに違いない」
 それから説教に学校の部活動のような体罰? が続いた。
「少しは分かったか?」
 何がだろう? 答えないでいると、
「俺の顔を殴ってみろ」
「は?」
「怖いのか」
 私は手加減を加えて彼の顔をはたいた。
「どうだ」
「はあ」
「こんな経験ないだろ? スネッカジリのお坊っちゃんが!」
 おとなしく、「はい」。
「俺はな、ケンカでよう、ひとを殺しそうになった事も有るんだ。少しは度胸もついたか?」
 私は彼女を殺した時のことを思い出して顔が弛むのを覚えた。
「馬鹿にしてるのか」
 どうやら先輩の逆鱗に触れたらしい。その場は済んでも、仲が良いと錯覚していた先輩のイジメが職場、プライベートを問わず始まったのだった。
 刑務所内での五年間で仲間内での暴力沙汰や刑務官の懲罰に馴れていた私にはそれは必ずしも苦ではなかったが、先輩への信頼を裏切られたその仕打ちは次第に我慢し難いものになっていった。私の大事なこころの内で。
「バカ」
「クズ」
「根性なし」
「親不孝」
 あらゆる罵声が暴力と共に私を襲う。私は自分を抑えながらそれに耐えた。だが次第に自制が効かなくなるのを予感する様になった。先生に電話をした。
「職場を変えたら?」
 そう助言もされたが「先輩」の為にお世話になっている会社を辞めるのも業腹だった。
 彼は、いや、あいつは何も分かっていない。世界の成り立ちも人間同士の信頼関係もひとを殺す方法も。分かってもいない人間に説教をされ殴られるほどの屈辱を私は知らない。教える必要があるだろう。そんな思いに駆られながら平穏無事な生活を守るため、耐えた。だがそれにも限度がある。想像のなかで先輩を殺害する映像を繰り返し繰り返し浮かべ、フラストレーションのはけ口にする自分がいた。
「駄目かもしれない」
 そんな諦めの気持ちさえ感じる。どうせもう捨てるものは何もないじゃないか。
「その通りだ」
 自問自答の私があった。いつかその日が来るのを待ちわびている自分というものが心の何処かで見え隠れする。
 その日が来た。彼は私を呼びつけ、職場裏の路地に私を連れていく。
 いつも通りの罵声と私を殴りつける音が響くなか、彼は言った。
「ぶっ殺してやるよ」
 冗談だったのかもしれない。喧嘩の常套句だったかもしれない。そのどちらでも無いのかもしれなかった。
 気が付くと先輩は路上に倒れていた。動かない。どうしたのだろう? 触ってみる。身体を揺らしてみる。呼びかける。何も変わらない。その身体からは何の反応も確認できない。死んだのだろうか。私は、私はーーーーーー
 風景が変わって私は街中の交差点で信号待ちをしている。歩行者横断歩道の信号が青に変わる。私は歩き出す。そのスクランブル交差点の大量の歩行横断者のなかに見え隠れする人影がある。誰だろう? 私はその人を知っている。先輩ではない。それは随分まえに置き去りにしたままだ。私は知っている。見覚えのあるその女の子は高校の制服らしい着衣の姿で私の少し遠くで手を振りながら楽しげに私に呼びかける、
「お久しぶり、博文くん」
 にっこりと笑うその人は「彼女」以外の誰でもない。私は生まれ変わりのある事を知り、彼女の方へ歩み寄って行った。

<了>



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