亡霊



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私には生まれる前からの記憶がある。最初に覚えているのは女の胎内に居た頃の記憶だ。
 私が足を伸ばすと何かにぶつかり、女の声がした。
「あっ、お腹蹴ったよ」
「本当かい? どれ」
 と気味の悪い男の声も続いて聞こえた。
「いつ頃になるのかな?」
「あと五ヶ月後が予定日よね」
「早く出ておいで」
 男と女の話しているのが聞こえて私はいつか、ここから外に出るのだろうかと。そして外にはどんな世界が待っているのだろうかと朧気に考えたのを覚えている。この何も見えない真暗な世界の外には何があるのだろうか。
 次に覚えているのは私の出産の記憶だ。私の周りから水が抜けて行って次第に息苦しくなっていく。サイレンの音が鳴り何処かに着いたかと思えば、たくさんの人間の息づかいと呼び掛ける声がする。
「ヒッ、ヒッ、フー」
 と女は妙な呼吸をしている。やがて私は完全に呼吸が出来なくなった。苦しい苦しい。
「がんばって。もう少しですよ」
 何が「もう少し」なんだ。こっちはこれ以上無いぐらいにがんばっている。死にそうだ。やがて私は狭い産道から外に出られた。やった。やってやった。そう満足に浸りながら私は産声を上げた。この新しい世界に誕生した、快適な部屋から「さよなら」をした声を。
「元気な男の子ですよ」
 別の女の声がする。ああ、そうか。私は男なんだなと、妙に納得したのを覚えている。
 取り上げられた私は新生児室というガラス張りの部屋に他の赤児と同じに仕舞われて待った。待った。そして母に抱かれて初めて目を開いた時に母は私にこう言ってくれた。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
 と。その声と母の幸せそうな笑顔に私も涙を零したように思う。
 その次は五歳ぐらいの記憶になるだろうか。私は母の膝の上に座ってあやされていた。不意に私は歌いたくなって、口を開くとも無く透き通った声で歌唱してみせた。母はそれに感動したらしく父が帰ると、
「お父さんにもう一度、歌ってみせて」
 と私にせがんだ。私は歌おうと努力したのだけれど歌う事が出来なくて、
「天使みたいな歌声だったのよ」
 と母が誇らしげに言うのを聞くともなく聞いていた。そうだ。あれは一瞬、私のなかに天使が降り立ったのだと私は考えるに及んだ。
 転機が訪れたのは私が小学四年生の頃だ。その時に私は何気なく曇った空を見ていて天上の薄闇から何かが降りて来るのを感じた。瞬間、私のなかにドス黒い液体が流れ込んだ。目には見えなかったが、確かにそれを感じた。同時に頭のなかには次々と予期しない考えが入り込んで来て私は私自身が壊され、造り変えられるのを文字通り体感するに至った。私は新しい自分になった事を喜び、それを与えてくれた天に感謝した。それは天啓だった。内容についてはここで記述するのは控えよう。追々あなた達も知る事になる。私が何を失い、何を獲得したのかを。
 三年後、私は中学校に上がった。趣味も特に無かったし面白そうな部も無かったので入部もせず勉強と家の往復を繰り返す生活が続いた。就職はまだ早いと思ったし、幸い入れる高校があったので私は進学する。そこで運命の出会いが待っていた。
 彼女は、「あの頃」と同じ顔して立っていた。
「やあ」
 と私が言うと
「こんにちは」
 と会釈して横を過ぎて行った。そうか。彼女はまだ知らないんだ。なら、私が教えてあげないと。
 その後、何度呼び掛けても彼女は素知らぬふりだった。本当に知らないんだな。では、どうやって教えてあげるのが分かり良いだろう。話せば長くなるはなしだから。私は取りあえず彼女を休日に遊びに行こうと誘ってみた。難色を示していた彼女も何度か誘ううちに「じゃあ、一度だけ」と仕方無さげに承諾してくれた。
 何から話そう。そればかりを考えていた。話さなければいけない事と、後からでも良い事と。
 休日、彼女はおしゃれして私を待っていてくれていた。
「今日は誘ってくれて、ありがとう」
 彼女は空々しい嘘を口にした。でも、まあ良い。
「一度話してみたいと考えてたから」
 と、私は正直な気持ちを伝えた。それがどれだけ伝わっているかは彼女の顔を見れば判る。ニコニコしてるばかりでその表情からは何も読み取れない。能面が笑ったら、こんな顔になるだろうにと私は思った。
「どこに行く?」
「どこへでも」
 笑って言った。調子のいい女だ。
「じゃあ、美術館にでも」
「うん」
 素直に付いて来た。後から知るのだが、どうやら彼女は美術部に在籍していたらしい。門をくぐると右側に大きなブロンズ像が立っていた。彼女は黙ったままだ。私に説明を求めている様にも思える。仕方なく感想を言った。
「へえ」
 その言葉に何だか小馬鹿にしたような態度を私は感じた。いけ好かない女だ。そのままブロンズ像は過ごして館内への戸を押し、内に入った。
 なかに入ると館内には一面至るところに窮屈そうに絵が飾られてあった。私は正直、どの絵にも感銘を受ける事なく退屈していた。彼女はといえば、暫くして一枚の絵画の前で立ち尽くしていた。
「きれい」
 タイトルには「誕生」とあった。それはマリアに抱かれて眠るキリストの生誕画よろしく、母とその胸に抱かれた赤ん坊が描かれていた。
(くだらない)
 内心、そう思いながら彼女がその絵から離れるのを待った。だが、いつまで経っても離れる気色が無い。イライラしていた。それを見て取ったのかどうか、
「この絵の良さが分からない?」
 ふふん。と笑って言いやがった。
「残念ながら」
「じゃあ、教えてあげる」
 それから彼女の得意気な鑑賞ガイドが始まった。そんな事は頼んでいない。何度もそう思ったが終わるまで黙って聞いていた。
「分かった?」
 分かる訳ないだろ。お前ら芸術家気取りの有り難い蘊蓄には反吐が出る。それに精一杯抗するつもりで私は、
「僕には生まれた時の記憶があるんだ」
 と言った。すると彼女は、自分のガイドに感銘を受けた私が比喩表現をするのだとでも思ったのか、
「聞かせて」
 と身を乗り出してきた。
「いいよ」
 それから私は途切れる事なく喋り続けた。母の胎内から出た時にどう思ったか、初めて目が開いた時にどれだけこの世界が眩しいものだったか。そして君に会った時に感じたことのすべてを。
「運命の出会いだったと思ってる」
 目を見開いてそう告げると彼女は暫くの間、考え込んでいた。そしてようやく口を開くと
「面白いわね。気に入ったわ」
 と言い、私たちはある期間のあいだは恋人同士としてつき合うことを彼女が決めた。
「そこから先はあなた次第」
 そう彼女は言った。







 それから私たちの交際生活が始まった。廊下ですれ違う度に声をかける私ににっこりと笑顔で挨拶を返すし、休日には決まって遊びに出かける。でも、これでいいのかと私は思った。彼女は私の話を信じてる様子でもないし、私を好きな訳でもない。ただうわべだけの恋愛関係を演じているにすぎない。疑問に思わないではいられなかった。
「どうして?」
 そう私が問うと、
「いいじゃない。私とつき合えるんだから。何か不満があるの?」
「それは……」
 いつも口ごもってしまう。つき合える期間は設定されているし、それから先は私次第だとも告げられている。何も伝えられないまま中途で関係が終わるのは勿体ない気がした。
「じゃあ、いいわね? 続けましょう」
 そう言われて私は頷くほかなかった。今に「その時」が訪れるのを虎視眈々と待ちながら。
 ある時、彼女が他の男子生徒に介抱されているのを目にした。男子生徒は「大丈夫?」などとありきたりな言葉を並べながら彼女をいたわっていた。どうやら階段を降りるときに転んだらしい。私は駆け寄ってすぐに彼女を同じようにいたわろうとした。すると彼女は私の方を睨むようにして、
「いいのよ、大丈夫だから」
 そしてまた男子生徒の方に向き直って「ありがとう」を繰り返していた。女としての媚びを売りながら。私は全てを理解した。彼女にとって私は魅力ある男などではなく学者が珍しい動物を手に入れたような態度を示し続けていたことを。せいぜいが興味ある研究対象に過ぎなかったことを。
 それならそれでいい。私には私の考えがある。そう心のなかで呟いた。
 
 それから学校での挨拶と週末のデートが決められた様に繰り返された。やがて、期限が近付いて来る。
「今週も行くわよ」
「デートに?」
「そう」
 もう時間がなかった。次の「おでかけ」で全てを決めようと思った。その為には用意が要る。私はまず、家中の写真アルバムを漁った。
「あるはずだあるはずだ」
 熱病に冒された患者が発するうわごとのように私は繰り返しながら探した。できるだけ古い物が良い。やがて私は一枚の白黒写真を見つけるに至った。間違いない。これに違いない。これを見せれば彼女も納得するはずだ。私は安堵してその日を待った。
 次の日曜日、約束の日。彼女はいつもの様に着飾って私を待ってくれていた。私を見た彼女の一言、
「一体、どうしたの?」
 どうやら私の衣裳に驚いたらしい。私は今日という日にふさわしくドレスシャツに蝶ネクタイ、併せてスーツという正装を用意して現れたのだった。本当は昔の貴族のように燕尾服で会いたかったのだがそれは間に合わなかった。
 「驚くことはないよ」と私は言いたかった。だって今日は、彼女と私との記念すべき一日になるのだから。
「とにかく行こう」
「どこへ?」
 いつもは二つ返事で応える彼女が不審の情を露わにした。不安になったのかな? 期待しているのかな? とにかく行くべき場所は決まっている。「さあ」と促して私は彼女を誘導した。着いたのは初めてのデートで訪れたあの美術館だった。
「ここ?」
 ますます不審げな顔の彼女を尻目に案内する。彼女の方がよく知っているであろう館内を。連れてきたのはあの母子生誕画だ。タイトルは「誕生」。あの日に私をガイドした彼女は、
「何なの?」
 と問い、私はそれに答えた。
「僕たちのなれそめについてさ。あの時、この絵を初めて見たとき、僕は言っただろう? 僕には生まれた時の記憶があるって。それだけじゃない、前世の記憶だってあるんだ。これを見てくれ」
 私は白黒写真を内ポケットから出して見せた。
「この写真を見てくれ。随分古い写真だ。ここにはほら、若い男女がふたり寄り添うようにして写ってるだろう。結婚の記念として写真館で撮ったのかもしれない。このふたりは、僕と君だよ」
 意味がわからない、という表情の彼女にも分かって貰えるよう丁寧に説明した。そして最後に、
「前世で僕たちは出会い、結婚し、終生を共にした。そして現世でもこうして会えた。これは予め決められた事なんだ。僕たちは何度でも出会い、愛し合うことを定められた永遠の恋人同士なんだよ」
 私の顔は興奮で紅くなっていただろう。すべてを話すことができた。そして、私たちは本当に結ばれるだろう。満足だ。だけれど彼女は私の顔をしげしげと見た後、こう言った。
「バカじゃないの」
 私は唖然とした。何も分からないのか? あれだけ説明したのに結果はただの徒労に終わったのか? 私はもう一度いちから説明することにした。
「あのね、」
 するとそれを遮って彼女は、
「もういいわ」
 何が良いというのだろう。君は何も分かっちゃいない。いいから私の説明を真摯に聞くが良いだろう。
「あなたが本当のバカだったって事だけは、これではっきりしたわ。もう十分。会うこともないでしょう。ああ、学校で会っちゃうか。じゃあ、私を見ても声をかけない近寄らないでね。これだけ守って」
 ああ、約束か。これが彼女の出した新しい私たちの間での決まり事なんだな。私は理解した。まだ出会うには早過ぎたんだ。だから彼女の理解力も未だ未成熟で及ばない。その時まで待って、という事なんだな。
「分かったよ。もう週末にも会わないし、学校でも出来るだけ話しかけない様にするよ。分かった。約束するよ」
 すると彼女は「分かってもらえて良かったわ」とひきつった笑みをこぼした。彼女も別れるのがつらいのだろう。私が頷くと、彼女は踵を返して去っていった。私はその後ろ姿をいつまでもいつまでも忘れない為に眺めていた。



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