亡霊



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 次の日から私と彼女の新しい生活が始まった。彼女は私の方をつと見ることさえなかったし、私も努めて接触しないようにした。すれ違う時の挨拶もない。週末のデートもない。すべては約束通りに進められた。約束を果たし続ければ続ければ前世での約束も実行されるだろう。私は満足だった。すべてが計画通りに進められている。ただひとつ計画外があるとすれば彼女に新しい男が出来たという事だけだ。大学生だった。私たちとの年齢差は四歳。大人の男という印象を受けた。もちろん彼女は新しい彼氏を私に紹介するわけではなかったし偶然、目にしたのだった。
 とにかく私は彼女の近況を知らない。知ろうと思い彼女の自宅まで休日の朝、出かけた。門に手を掛けようとした時、彼女との約束を思い出した。そうだ、会わない約束だったな。私は彼女が家から出て来るのをあてもなく隠れて待った。二時間が過ぎようとした頃、玄関戸が開く音が聞こえる。それが彼女であることを確認した私はこっそりと後について行った。もちろん彼女は私が後ろにいることを知らない。歩いて駅に着き、そのまま電車に乗る。私はとなりの車両で息を殺していた。車両を覗くと、楽しそうにスマートフォンをいじっている彼女が印象的だった。やがて、ある駅に停まると彼女は電車を降りて行った。私も付いて行く。駅は市内中核部に位置するもので敷地内に大きな噴水が置かれている。待ち合わせ場所に良さそうである。事実、そういう使われ方をしているのが分かった。次々に待ち人が現れ共に消えていく人たちがいた。彼女はというと相変わらずスマホを熱心に弄くっている。よっぽど好きなんだなあと感心すると共に寂しい人だと思った。声をかけてあげようかなと思った時に彼女が顔を上げた。私に気付いた? いや、そこには男が立っていた。彼女は笑顔である。ああ、あれが新しい彼氏なんだなとそのとき知った次第である。
 それからの二人について報告するのは避けよう。他人のデートを覗き見するなんて事は余りにも悪趣味だから。ただ彼女は至極楽しそうであったとだけ言っておこう。私は彼女の近況を知り、満足して家へ帰った。
 その間、私が何をしていたか。彼女との来るべき将来に向けて何を準備していたか。実は何もしていなかった。それでも未来は決定しているからやがて私たちは結ばれる。それだけを信じ、怠惰に時を過ごしていた。彼女は相変わらず大学生との逢い引きを楽しんでいるようだったし、私は私で彼女との距離をとり続けていた。私は次第に焦りを覚えるようになっていった。これで大丈夫なのかと。本当に。
 ある日、学校で昼休みに彼女に声をかけた。
「僕たちは本当にこのままで良いのかな?」
 言い終える前に彼女は背を向けて遠くに消えてしまった。このままではだめだ。私は決意した。まず初めにするべき事は何だ? 私は自問した。答えは出なかった。途方に暮れそうになった私だがここで引き下がるわけにはいかない。私は、私と彼女のルーツを正式に確認することから始めようと考えた。そこから答えは出て来る筈だ。
 私は私の所在地の市役所に赴き、自己の戸籍謄本の閲覧を所員に求めた。窓口の係員はとても親切な人で学生である私にいろいろと説明をして下さり最後に「本人確認書類が必要なんですよ」と言った。私はそんなものが要るのかと初めて知り「出直します」と言って役所を後にした。家に戻り健康保険証を親に借りようとすると「どうしたの?」と咎められたので「具合が悪いので病院に行くのだ」と告げるとあっさり許してくれた。市役所に再び行き、先ほどの係員に保険証を提示すると「確認ができましたので」と謄本のコピーをくれた。交付には僅かな額の手数料が必要だったが本当に小さな額なので申し訳ない様な気にもなり、係員に「すみません」と頭を下げた。係員のひとは笑顔で見送ってくれた。
 さて、謄本を自宅に持ち帰り腰を落ち着けてじっくり見ようとした。が、封書から出すと内容は至極簡単なもので私の本籍地、生年月日、それと両親の名前程度が記載されている一枚の紙切れに過ぎなかった。これでは何も分からない。分からないでは私も困る。何の気なしに引き出しに仕舞ってある写真を取り出してみた。あの日、彼女に見せた白黒の写真である。古写真には私と彼女らしい二人がふたりして笑顔でこちらに微笑みかけている。ぼんやりと見ている内に「家系図」という単語が私の頭に浮かんだ。そうだ。まだその手があったではないか。何も役所の登記簿などに頼る必要はない。私と彼女のルーツそのものが記されてある文書がこの家のどこかにあるはずだ。
 納戸のなかをガサガサと漁る私。ふと、何でこんな事をしているのだろうかと思った。彼女との未来が決められているのなら必要のない努力ではないだろうか? いいや。その時、その時で全力を尽くす必要があるのだ。それこそを神様も求めている。思い直して私は頑張って捜し物を続けた。亡くなった祖父の蔵書やらメモ書きやらの中からようやく見つけ出すことに成功した。捜していた家系図だ。書かれてあるのは随分遠い先代の名前のようである。祖父どころか曾祖父の名前すら記されていない。新しい名から順に遡って辿り続ける。やがて一つの名前に行き着いた。そのひとの名は私の知る彼女と同じ名前であった。「これだな」。そして彼女の夫となっているひとの名は、私とは違う名前だった。ふと疑問に思ったが考えている暇は無い。この二人の事を詳しく詳しく調べるのが先決だと考えるに及んだ。
 まずは存命の私の父母に手に入れた家系図を見せ、話を訊いた。ふたりは何も知らないと言う。祖父母はもう早くに他界している。困り果てた私に耳打ちする声がある。
「電話帳を調べよ」
 その通りだと私も思った。名字、名前から片っ端に調べ上げ電話をかけ続ける。良い答えは返って来ない。
「違います」
「違います」
「違いますよ」
 繰り返しだった。何百回目かにやっと
「知っています」
 という返事を聞く事ができた。私は約束を取り付けるのも忘れて電話帳に載っているその人の住所に向かった。
 その人の家は随分遠くの田舎の方で古めかしい門構えをしてあった。チャイムは見当たらない。重い木戸の門を押して内に入る。すると縁側に年の寄ったお婆さんが座って庭を見ているのが目に入った。
「すみませんーー」
 私はそのお婆さんに近付いていく。こちらに気づき顔を上げる。
「どうも」
 会釈するとその人はニコニコと笑顔を返してくれた。「先ほど電話させて戴いた者ですが」と伝えるとポカンとしていた。
「お邪魔させて頂いて良いですか?」
 了解を得て隣に座る。それから話をした。
 随分、長い話だったように思う。話は戦前の日本の様子から満州時代のこと、そしてそのお婆さんの夫の話へと移っていく。
「あのひとはねぇ、」
 話し続けるお婆さんの横で私はぼんやりと庭に生える立木を眺めていた。なかなか目的にしている事が話題に出ないなあ。そう考えていた。不意にお婆さんが彼女の名を口にした。ハッとしてそちらに顔を向けた。
「そのひとを知っているのですか?」
 私が問うとお婆さんは、
「知っているも何も私の母ですからねぇ」
 「もっとその話を詳しく教えて下さい」乞うて言うと目の前の人は滔々と喋り続けていった。
「私の母は幼い頃、貧乏のために随分苦しんだそうです。こんな苦労は嫌だと言って家の仕事を手伝いながら勉強をして師範学校にまで入ったのです。幸い苦しいながらも経済的な家族の応援も得られ、もちろん怠ること無く励み、卒業後は女学校の教員になりました。そこで生徒たちに教える傍ら西洋の本を読む内に女性解放運動にも興味を持つようになり放課後にこっそりと生徒たちにその様な本を読ませ「これからは女性も独立する時代だ」などと励ましていたそうです。それが学校側に知れ、いろいろあったそうですが結果としては辞職するのです。その後、……」
「その後、結婚するのですね?」
 私が問い正すとハッと思い出したようで
「そうです。結婚するのです」
 と答えが返った。
「同じように解放運動に携わっていた男性で母は「運命のひとだ」とひどくその方を好いていたそうです」
「そうでしょう、そうでしょう」
「でも結局はそのひととの間は駄目になったのです」
 どうも話がおかしいぞ。私は不安になってきた。
「母は実家と遠縁の富農の男に貰われる事になりました。結納の日まで絶えず「いやだ、いやだ」と泣いておりました」
「その人とはどうなったのですか?」
「嫁ぎ先の男ですか?」
「いいえ、あなたのお母さんが語った「運命のひと」です」
「そうですね。嫁いだ後になっても母はそのひとを忘れられなかったと言います。嫁ぎ先の家の目を盗んでは逢い引きのような事も繰り返していたようですね」
「それで?」
「死にました」
「はい?」
「ですから、その母が好いていたという男は若くして亡くなったのです」
 「それからどうなったのですか?」と問うても、
「どうにも仕様がありません。この世にいないのですから」
 と言うばかりだった。
 夏の風が通り過ぎ、蝉の声が響き渡るなかで私はじっと待った。やがて期待していた通りの声が耳の後ろに届いた。
「訊けば良い」
 その通りだ。望んだ答えが得られないのなら、それが表れるまで答えを引き出し続けるが良いだろう。
「あの世で会おうという約束は?」
「来世での再会の約束は?」
「亡くなる前に何か約束を記した文書は?」
「夢のなかには現れなかった?」
 そこまで訊くと横に座るお婆さんははたと思い出したように、
「そういえば、母はその方が夢枕に立ったと話したような気がします」
「そうでしょう」
「いえ、私の思い違いかもしれません。何しろこんな歳ですから」
「いやいや、間違いありません。夢枕に立った事は僕も知っているのですから」
「あなたも?」
 とびっくりした様に言うので私は、
「そうです。ですから、その記憶に誤りはないのです」
「では、そうなのかも知れませんねぇ」
 私は嘘は言っていない。夢枕に立った男は私の前世での姿であり、私の記憶、脳にもはっきりと刻まれているのだから。それが証拠に私はこのように的確な記憶の復元を横にいるお婆さんにもたらしたのだ。
「あなたも、」
「はい?」
「あなたも私の母を好いていたのですね」
 私は何かを思い出したように感じて、
「ええ。その通りです」
 と答えた。
 私は今日初めて会ったお婆さんに丁寧な挨拶して、その大きな門構えの家を後にした。




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