亡霊





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 裁判の後、刑務所に収容された私は日がないちにち、他の受刑者たちと同じ事の繰り返し。繰り返しだった。思い出すのは彼女のことばかり。
 他に書くべきものが見当たらない。驚きも変化も何もなんにも無かった。
「おまえ、殺したんだって?」
 頷くと、
「恋人だっけかな?」
「ええ」
「嘘つけ。新聞で読んだよ。ストーカー殺人ってな。何年か前に流行ったのと同じ記事の見出しだったよ」
 その人は大きな溜め息を吐くと
「ここに来る奴らは嘘つきばかりだ」
 腹が立っているのか呆れているのか遠くを見ている目が印象的だった。それから、その人と話す機会がよく有った。
「俺は何もしていないんだ。何もな」
「罪状は?」
「婦女暴行と殺人、それも合計で3件。信じられるか?」
「はあ」
「十年前だな、それは。俺は何度も言ったよ。やってないって。警察にも弁護士にも裁判官にも。誰も信じなかった。笑えるのは俺を弁護する立場の奴にも話を聞いて貰えなかったことだな。面倒だったんだろ、立証するのが」
「はあ」
「そんなものなのかなと思ったよ。状況証拠は揃っていたし何より俺は素行が悪かった。だから」
「はあ」
「だから、こうなった。今となっては誰を恨むでもないけど親兄弟ぐらいには何もしていないって信じて欲しかったな」
「はあ」
 
 娯楽のひとつである運動の時間に話すこともあった。ソフトボールをしている仲間を見ながらこんな話をした。
「何で殺したんだ?」
「ええ」
「腹が立ったのか?」
「いえ」
「心中でもするつもりだった?」
「いいえ」
「じゃあ、なんで?」
 考えてみたがよく分からなかった。そう言うと彼は、
「災難だな、そりゃ。よく分からないのに殺されたのか」
「ああ、」
 思い出した。彼女とは前世からの付き合いである事。現世でダメだったから来世に希望を繋ぐつもりで彼女の息の根を止めたこと。彼女は私を愛していた事。すべて話した。
「そいつはそいつは、災難だな」
「ええ」
「お前じゃないよ」
「はあ」
 彼はまた溜め息を大きくすると吐き捨てるように言った。
「冥福を祈るよ」
「ありがとうございます」
 舌打ちを打つと向こうの方へ行った。「待って」と言ったのに。
 いつもそうだ。彼の真似ではないが誰も私の話を信じない。どうしてだろう? それを彼に訊くと、
「本気で言ってるのか?」
 その後、何も言ってくれなかった。私も溜め息を大きく吐きたい気分だ。

 彼が出所する前日、話をしてくれた。
「俺は明日終わるけれど、お前はここを出たら何をするつもりなんだ?」
 考えた結果、
「彼女を探す」
 と答えた。
「探す?」
「はい」
「死んでいるのに?」
「ええ」
「生まれ変わりが?」
「はい」
「あると?」
「その通りです」
 黙っていた後、こう言ってくれた。
「お前さんはここを出ない方が良いよ。何か内で悪さでもして永遠に入っているのがいい」
「でも、僕は」
 「やめておけ」と彼は言った。生まれ変わりなど無いという事、また同じことを繰り返すだろう事、ひとの為にも自分の為にも檻のなかに居たのが良いという事。滔々と語ってくれた。
 何も分かっていない。外には私を待ってくれている彼女がいるのだ。
 翌日、彼は出所した。

 入って一ヶ月が過ぎる頃、臨床心理士というひとに矯正教育を受けるようになった。週に一度カウンセリングをしてもらう。まずは幼少時からの体験、経験から掘り起こす作業が始まった。
「母の胎内に居た記憶があります」
「それは、どのような?」
「僕の住んでいた子宮に届く声の記憶と、出産時の体験、新生児室での経験などです」
「それはずっと覚えていた?」
「?」
「つまり、途中で思い出したのではなく継続した記憶があったのですか?」
「もちろんです」
 心理士は少し考える素振りを見せた後に、
「新生児室から出た後、次に覚えていることは?」
「五、六歳の時に母の膝の上で歌った経験です。すごく褒められたのを覚えています」
「次は?」
「小学生、四年生ぐらいだったか曇り空の上からドス黒い液体が降りて来て僕の体内に流れ込んだ事かな。新しい自分に変われて嬉しかったのを覚えています」
「その後は?」
「特にノートに特筆すべき様な事はなく平々凡々と過ごして彼女に出会いました」
「それは、いつ?」
「高校入学して、すぐです」
「そうですか。今日はこれくらいにします。いっぺんに確認作業をしても疲れるでしょうから。また来週に回しましょう。お疲れさまでした」
 こんな事が何の役に立つのだろうと不審だったが決められたことなので仕方ない。来週を待つことになるのだろう。その日はよく眠れた。
 翌週、心理士の先生は挨拶のあと、私に訊いてきた。
「課題はできましたか?」
「出来ました」
「では、聞かせて下さい」
 私は話し始めた。
「高校入学の時に彼女に出会って、前世以前からの約束があったこと、今までの特異な体験、出来事はすべてこの為に用意されていたものだとすぐに気付きました。それまでの疑問が解消されてとても気分が良かったんです。先生の下さった課題に答えますと、彼女に出会うのを機会に曖昧だった僕の記憶が補填される感じでした」
「つまり幼少時から、或いはあなたが母親の胎内に居た頃の記憶を含めてその女性と会うことで鮮明になったと?」
「そうです」
「それまでは忘れていた?」
「そう取って貰っても構いません。前にもお話ししましたが、幼い頃に液体が天上から流れて落ちて来て、僕は自分が生まれ変わったと感じました。それは天啓でした。つまり神から選ばれた人間である、と気付いたのです」
「なるほど。それは今も続いている?」
「彼女を失うことで一時的に途切れてしまいましたが、外に出て彼女を見つけ出せば、また啓示を受けるものと確信しています」
「では今日はここまでにしましょう。お疲れさまでした」
 それから記憶の確認と反証、証明の作業が根気よく行われた。それは私にとって新しい経験だった。間違った記憶、正しい記憶、自身への問いかけ、等々等々。頭のなかが整理されるのは心地よくさえあった。例え、「それは間違っている」と言われようが私はその修正を喜んで受け入れた。先生は信頼できるひとだと日々確信する。私は間違っていると毎回確認する。生まれ変わった気がする。誰も今までそうしてくれた人はいなかった。私を頭から否定するか放置するか、そのマイナスの人生から抜け出すチャンスだった。そう、これはまたと得られない機会なんだ。刑務所という特異な空間で正常な教育を受ける。逆説的でさえあるこの作業は私が私を取り戻す為の戦いだった。
 先生は私に最後の課題を出した。
「ロールプレイングです。あなたが被害女性を殺害した時の出来事を再現してみましょう。その上で私はあなたに多分最後になる問いかけを行います。辛いかも知れませんが途中で止めたりせず最後までやり抜くこと。大丈夫です、今のあなたなら。私は男ですが、あくまでも被害女性のつもりで真剣に行って下さい」
 私は深く頷いた。
「では、やってみましょう」
 先生は教育室の床に寝転んだ。仰向けに私を受け入れる格好だ。あの時と同じだ。私を待ってくれている人がそこにいた。
 私は先生の、いいや彼女の首に優しく飽くまでも優しく手をかける。再現が始まる。今度こそ失敗は許されない。
「生まれ変わりを信じるかい?」
 力を加える。
「信じるよね?」
 彼女の呼吸が苦しそうなものへと移って行く。
「信じる気になった?」
 苦しみながらもようやく顎を引く。頷いたのだ。快哉の声を上げたいのをこらえながら次に進む。
「僕もだよ。そうなんだ、君と僕とは過去から未来永劫転生を繰り返して結ばれ続ける事を約束された恋人夫婦伴侶なんだ」
 興奮を隠しきれない私は息を荒げながら叫び続ける。もう隣室の住人や外にいるだろう通行人、遊びに興じる子供たちその母親のことなど頭には入らない。私は夢中で幸せだった。これまでの人生で最もという程に。
「僕の本当の名前を教えてあげようか。君の知ってる名前、友人の知る名前、僕の両親さえ知らない名前、それはね」
 射精しそうになるのを我慢して叫ぶ。
「僕は本当はね、博文っていうんだ。平凡な名前でがっかりしたかい? でもこれは秘密だよ?」
 暴れる彼女を首に掛けた両手で抑えながら
「だって他のひとに知られたら前世以前からの約束が途切れてしまうんだ。生まれ変わりを繰り返しながら僕はいろいろな名前をその場の両親に名付けられる。でも、それは仮の名で嘘なんだ。この博文って名を知るのは僕と君以外にはいない。記憶を辿ってごらん。君にも分かる筈だ。だから」
 何故だか涙がこぼれる。必死に語りかけながら私は、
「だからこの名前で僕を呼んでくれるひとが運命の転生の約束の人なんだ。どうだい、思い出したかい?」
 泣き叫んでいるのはいつしか彼女ではなく私に交代していた。
「だからだからだから」
 先生の力強い腕が彼女の首にある私の両手を外した。私はハッと気付く。暫く咳き込む先生の音が室内に響いた。私は泣き崩れる。
「どうして」
 先生の喉が出す音が消えた後も嗚咽を繰り返す私の背中をさすり、「大丈夫、大丈夫」と言ってくれる。
 何が大丈夫なのだろう? ああ、そうだ。もう何も心配する必要はないんだ。私は神に選ばれた人間でも、生まれ変わるごとに約束を果たす事も、もう居ない彼女を探す事もしなくて良いんだ。
「ありがとう」
 それは儀礼的な挨拶でもなく、尊敬の気持ちから来る言葉でもなく、私の心が発した音声だった。先生は、
「もう大丈夫だよ」と繰り返し言う。後、
「あなたは今、どう考えますか?」
 先生の意味することは分かっていた。いいや、やっと分かった。
「もう何もないです」
「そうですか。今日で矯正教育は終わりになります。もう必要がない事を私が確認しました。あなたはいま、立派な一人の人間です。妄想も狂気も何もない。そう判断します」
「でも僕は、もっと」
「ここからはあなた自身の仕事です。私には介入できない深い部分にあなたが直接触れる番です」
 私はじっと考えた後、
「分かりました」
 と答えた。
 その後も先生に教わった思考の反証、証明。私は自身で行いながら気付いていった。
 かつて私は狂人だった。今は「違う」と言える。そう言う自信がある。私は自分の勝手で彼女を殺害してしまった。何の罪も無い人が私の妄想の実現の為に死んでしまった。
 その重みを深く受け止める。私は私を改善する必要がある。それは先生が何度も教えてくれた正しい方法で。
 後悔がある。今ならそう思える。全く落ち度がないと思っていた時、私は私ではなかった。これからは自分を失う、見失う事の無き様、自分の仕事を忘れないと誓った。これ以上の犠牲、間違いを犯さない為に。
 三年が経ち、五年が経ち、私は自分というものが人間らしさを取り戻したと思える頃、出所の話が上がった。品行方正といえば気恥ずかしいが、それが認められ仮釈放になる事がしばらくして正式に決まった。
 私は晴れがましい様な、寂しい様な心持ちだった。もっとここに居て自分自身を見つめ直したいという気持ちと、外の社会で生まれ変わった自分を試してみたい。そんな思いだった。
 釈放の日、久し振りに先生に会えた。祝って下さり、それと一緒に注意点を教えてくれた。
「いいですか? 今さら忠告でもないのですが一つだけ」
「はい」
「自分を大切にすること、それは他人を大切にすることにもつながります。それから」
「はい」
「自分を否定しないこと。さっき言ったことと重複しますが妄想幻想に囚われず本来の自分を失わないこと。いいですか?」
 よく噛みしめた後、私は元気よく
「はい」
 と先生に答えた。
「では頑張ってください。あなたをいつまでも応援します」
「ありがとうございます」
 私は刑務所の門をひとりで出た。





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